皆さんよくご存じの、iPS細胞の開発で2012年のノーベル生理学・医学賞を受賞された京都大学教授・iPS細胞研究所所長の山中伸弥先生。
本年の2月に、一般市民向けの再生医療公開シンポジウムに参加し、iPS細胞を用いた再生医療の実現に向けた現状について、山中先生ご自身がお話されるのを聴く機会がありましたので、今回は、山中先生のお話をかいつまんで、分かりやすくお伝えしたいと思います。
その前に今回の前編では、iPS細胞について理解するために、予備知識としてどうしても必要なES細胞のことと、そして、iPS細胞とはどういうものか、さらに、山中先生がiPS細胞の作製が可能だと確信を持った経緯についてお話します。
目次:
1.ES細胞とは ~ビフォー・ヤマナカ時代の再生医療の試み~
2.山中先生の苦闘
3.山中先生の信念
次回予告:山中先生自身が語るiPS細胞の医療への応用の取り組み
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1.ES細胞とは ~ビフォー・ヤマナカ時代の再生医療の試み~
例えば、骨髄から出て間もない未熟な(未分化な)血液細胞の赤ちゃんは、これから赤血球、白血球、血小板と、どんな種類の血液細胞にもなり得ます。
ところが、心臓の筋肉である心筋の細胞や脳神経の細胞なんかは高度に分化しきった細胞で、今さら他の細胞に変身(分化)することは出来ません。
このように、一旦ある種の細胞に分化が進んでしまった細胞は、後戻りして、別の種類の細胞になることは出来ないのです。
これからどんな細胞にでもなり得る「多能性」を持つものと言うと「受精卵」です。
精子と卵子とが受精してできた、たった1個の受精卵から、様々なタイプの細胞に分化し、全ての組織や臓器を形作り、人間の形と組織や臓器の機能を形成して私たちは生まれてくるのです。
この受精卵の万能的な能力を何とか医療に利用できないものか。
目の網膜の損傷で失明する病気、パーキンソン病のように神経が変性して運動機能が損なわれる病気。
このような病気に、正常な網膜組織や神経細胞を再生して移植できれば、このような難病も克服できるのではないか?
そういう多能性細胞から再生させた組織を用いた「再生医療」の基本的な治療概念は古くからありました。
最大の課題は、どんな細胞にでも変身(分化)できる能力を持つ受精卵ですが、これを際限なく培養できる技術を確立し、さらに、望みの通りの細胞に分化させる方法を見出さなければなりません。
この受精卵を基にして、人間の人工的な操作によって増殖と分化を制御可能とすることにより、再生医療に使えるような仮想の細胞はES細胞(embryonic stem cell;胚性幹細胞)と呼ばれました。
そして、ついに1981年、初めてマウスの受精卵を利用したES細胞の樹立が報告されました。
この後、マウスの様々な病気のモデルで、マウスES細胞を用いた再生医療の研究が進められ、ヒトへの応用に向けての手応えを得たのです。
しかし、ヒトのES細胞の樹立は困難を極め、なんと17年後の1998年にやっと実現されました。
ところが、ヒトのES細胞には(初めから分かっていたことではありますが)倫理的に大きな問題があります。
つまり、受精卵と言う、生まれたばかりの生命を破壊してしか作れないと言うことです。
極論を言うと、これは殺人ではないのか!?
当時、再生医療先進国であった米国では様々な議論を呼びました。
かの国は宗教上の問題もあり、妊娠中絶の是非についても激しい議論が展開されるお国柄です。
我国においてはどうか?
体外受精においては、試験管内で複数の卵子に対して精子を受精させますが、受精した複数の受精卵のうち、母体に戻すのはたった1個です。
つまり、その他の受精卵は一部凍結保存されたり、なかには廃棄されるものもあります。
我国では、この廃棄される運命の受精卵をES細胞樹立に使用することが認められているのですが、これってどうなのでしょうか?
そんな訳で、ES細胞を用いた再生医療の研究は、国際的な議論が展開されましたが、各国の足並みはそろわず、結論に至らず、実用化に向けた研究は思う様には進展せず、医療への実用化には程遠いのが現状です。
そんな中で、ついにiPS細胞の登場です。
2.山中先生の苦闘
「iPS細胞」というのは、「induced Pluripotent Stem cell」の略で、「人工多能性幹細胞」と訳されます。
多能性幹細胞とは、受精卵のように、これからどのような種類の細胞にも変身(分化)し、様々な組織、臓器を形作っていく能力を有する、文字通り「多能性」を備えた細胞です。
ヒトのiPS細胞
ちなみに、IPS細胞ではなく、「i」の字が小文字になっているのは、当時爆発的に売れていたアップル社のiPodのように、世界中に広まって欲しいとの想いから、山中先生ご自身が、敢えて「i」の文字を小文字にして名付けたそうです。
それ以上の深い意味はないとのことで、山中先生の遊び心を感じるところですね。
さて、iPS細胞は皮膚や血液など、理論的には分化したどんな細胞からでも作製が可能です。
かつては、分化した細胞が未分化な細胞に逆戻りし、そこから別の細胞に分化するなんて事はあり得ないと考えられていました。生物学の常識中の常識です。
山中先生だって、そのことは認めていたと思います。
しかし、山中先生は、逆戻りとまったく別のことを考えていたのです。
それは、「逆戻り」ではなく「初期化(リセット)」です。
皮膚や血液の細胞が、前の未分化の細胞の状態に逆戻りすることはありません。
しかし例外があるのです。
ヒトの細胞は、年齢とともに老いていき、細胞の機能は低下し、そのために様々な不都合が生じて、その結果として病気になったりします。
しかし、そのような歳とった両親の精子と卵子であっても、受精すれば見事に若返って元気な赤ちゃんが生まれてくるわけではありませんか!
これは一体どういうことなのか!?
受精後に何か大きな変化が起きていることは間違いありません。
それを起こすものは何なのか?
この受精卵の若返り現象は、分化の「逆戻り」というよりは、「初期化(リセット)」と考えられます。
分化した生殖細胞が一気にデフォルト状態に「リセット」されるのです。
受精卵が分化した細胞の状態からリセットされているのであれば、そのリセットを行う仕組みが働いているはずです。
そのリセットを行うのは、何らかの遺伝子の働きによるものだとしか考えられません。
いや、どう考えても他にはあり得ません。
今から思えばですが、山中先生のこの考え方は、非常に合理的です。
ところが当時は、どこに行っても、誰に話をしても、決まって言われるのは「そんなことができる訳がない」でした。
信念を貫くために研究費集めに奔走しましたが、本当に苦労されたと言います。
とにかく、こんなSFまがいの研究には、ほとんどの人が研究費を付けてくれなかったのです。
ほとんどの研究には流れがあります。
しかし、過去ブログ【054】でお話した、坂口志文先生の制御性T細胞探索の研究は、誰からも注目されない、いわば当時の免疫学研究の流れから外れたものでした。
山中先生と同様、当時の志文先生も研究費集めに苦労されました。
ところが今や、制御性T細胞は現代免疫学の「本流」となり、世界中の多くの研究者が制御性T細胞の研究に集まって来ています。
なぜなら、このような本流にのった研究をした方が、研究費の獲得も容易だし、結果も出やすい、つまり論文もたくさん書けるし、それによって自分の研究者としての業績も上がる訳です。
山中先生が訴えたiPS細胞も、志文先生の制御性T細胞と同様、当時の如何なる研究の流れにものらないもので、事実、ほとんどの人から支持が得られなかったのです。
山中先生は、何度となくくじけそうになったと言いますが、そんなある時、当時、世界最高峰の大学のひとつであるマサチューセッツ工科大学の教授であった利根川進先生(1987年、日本人初のノーベル生理学・医学賞受賞)の講演を聴き、講演終了後の質疑応答の時間に、勇気を振り絞って利根川教授に質問をぶつけました。
「研究者は研究の本流にのったテーマをやるべきなのでしょうか? 本流に乗らないテーマは、なかなか評価されず、研究費も付けてはもらえません。そのような研究はすべきではないのでしょうか?」
私はこの時の動画を観ましたが、質問に立った山中先生は、今とはまるで別人のようでした。自信は失せ、緊張し、恐る恐る利根川先生に話しかけるのでした。
そして利根川教授はこう答えました。「君に信じるものがあるのなら、信じることをやるべきだ」と。
尊敬する利根川教授にこう言われて、山中先生は決意を新たにしたと言います。
その山中先生がノーベル賞を受賞した後で、利根川先生はその時のことを思い出して、こう言いました。「『面白いことをいう若い奴がいるもんだなぁ』と思ってねぇ」と。
3.山中先生の信念
生殖細胞である卵子と精子が受精した受精卵では、全ての老化と分化の状態が何らかの遺伝子の働きによってリセット(初期化)されるのではないか?
だから、そのリセットを行う遺伝子が存在するはずだ!
受精卵では自然に起こっているその生命現象を人工的に起こす。
ただそれだけのことなのだ! そのからくりが解れば、造作もないはず。
この信念に基づいて研究を重ね、ついに山中先生は、皮膚の細胞でも、血液の細胞でも、たった4つの遺伝子を導入し、その細胞の中で起動させることによって細胞の全ての状態がリセットできることを、ついに発見したのです。
この4つの遺伝子を皮膚細胞なり、血液細胞なりに導入すると、ES細胞に非常に良く似た状態にすることができ、ES細胞と同様、ほぼ無限に培養でき、様々な刺激によって様々な細胞に分化できる「多能性」を有することが分かったのです。
iPS細胞樹立を成功させた4つの遺伝子。
これらは「ヤマナカ・ファクター」と呼ばれています。
次回予告:
山中先生は2006年にマウスのiPS細胞を樹立し、そして、翌2007年には早くもヒトのiPS細胞を樹立されました。
そして、わずか5年後の2012年にはノーベル生理学・医学賞を受賞されています。
この生理学・医学賞受賞の速さは、近年では異例のことです。
それだけ医療界に対してインパクトのある業績だと、高く評価されたのでしょう。当然のことではありますが。
ヒトのiPS細胞の樹立からちょうど10年の節目を迎えた今年、初めて生で山中先生のお話を聴けた訳ですが、次回は、山中先生のお話から、ご自身がけん引されている、iPS細胞の医療への応用の取り組みついて、たとえ話を交えて、出来るだけ解りやすくお話したいと思います。
今回も最後までお読み頂き、ありがとう御座います。
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